デジタル麻雀の陥穽
2014年12月17日今日は仕事帰りにフリーへ。
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例によってチップを稼げてないので、さほど儲かってない。
赤牌切って擬似的に37のカベを作って3-6、4-7で待つのが大好きな人間なので、仕方ないと言えば仕方ない。
私はいわゆる「流れ論」が嫌いだが、その対極にあるはずのデジタル麻雀にもいまいち馴染めずにいた。その理由が、朧気ながら分かってきた。
ヒントはチェスや将棋にある。これらの零和完全情報ゲームには解析解が必ずある─双方が最善を尽くした場合、必ず「先手勝ち」「後手勝ち」「引き分け」のいずれかになる─わけなのだが、それは未だに発見されていない。それどころか、コンピューターが人間相手に容易く負ける始末である。
麻雀とて、「完全情報」でこそないものの、リソースの限られたゲームである。使える牌は34×4=136枚。増減はない。特定のリーチに任意の牌Xを打って放銃となる確率も、その際の打点期待値も、計算できないことはない。だがこのことは、大した意味を成さない。なんとなれば、計算式が複雑に過ぎるから。一手を数秒で打たねばならぬ実際の対局では、上の計算は神ならぬ人の手に余るものなのだ。
すなわち、デジタル派の推奨する手筋というものは、間違ってはいないものの、本来著しく複雑なものである場況を単純化しすぎている。彼らの描く近似や期待値というものは、著しく粗いのだ。
結論:デジタル派の推奨するセオリーは、間違ってはいない。しかしセオリーから逸脱しなければいけない状況は無限にある。すなわちセオリーには無限の注釈が付されるということだ。セオリーに付け加えた注釈の数だけ、雀力は上昇する。
そんなものだと、今ひしひしと感じている。
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例によってチップを稼げてないので、さほど儲かってない。
赤牌切って擬似的に37のカベを作って3-6、4-7で待つのが大好きな人間なので、仕方ないと言えば仕方ない。
私はいわゆる「流れ論」が嫌いだが、その対極にあるはずのデジタル麻雀にもいまいち馴染めずにいた。その理由が、朧気ながら分かってきた。
ヒントはチェスや将棋にある。これらの零和完全情報ゲームには解析解が必ずある─双方が最善を尽くした場合、必ず「先手勝ち」「後手勝ち」「引き分け」のいずれかになる─わけなのだが、それは未だに発見されていない。それどころか、コンピューターが人間相手に容易く負ける始末である。
麻雀とて、「完全情報」でこそないものの、リソースの限られたゲームである。使える牌は34×4=136枚。増減はない。特定のリーチに任意の牌Xを打って放銃となる確率も、その際の打点期待値も、計算できないことはない。だがこのことは、大した意味を成さない。なんとなれば、計算式が複雑に過ぎるから。一手を数秒で打たねばならぬ実際の対局では、上の計算は神ならぬ人の手に余るものなのだ。
すなわち、デジタル派の推奨する手筋というものは、間違ってはいないものの、本来著しく複雑なものである場況を単純化しすぎている。彼らの描く近似や期待値というものは、著しく粗いのだ。
結論:デジタル派の推奨するセオリーは、間違ってはいない。しかしセオリーから逸脱しなければいけない状況は無限にある。すなわちセオリーには無限の注釈が付されるということだ。セオリーに付け加えた注釈の数だけ、雀力は上昇する。
そんなものだと、今ひしひしと感じている。
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