仕事と下見の合間に。

感想は…非常に良いと思います。こういう作品。好きというか、私の肌に合ったというか。皮肉でもなんでもなくそう思う。以下に愚見を。若干のネタバレはあるかもしれないが、心配ご無用。何となれば、この作品はネタバレが重大な意味を持ちうるほど強いストーリー性を持っていないから。

この作品は明らかに『崖の上のポニョ』と同じ系譜上にある。一見両作品は似ても似つかないものであるが、双方とも、

「大文字の主題を離れた表現のための手段として、アニメというメディアを用いている」

のである。要するに両作品とも、

「人間ないし人間性を、党派性に還元し尽くし得ないものとして描くことを標榜している」

のだ。この点こそが、今現在の宮崎駿のクリエーターとしてのスタンスを特徴づけているように思われる。すなわち宮崎駿は、『ポニョ』以降、大文字の主題や単純明快な二項対立の図式を離れたアニメ制作を標榜し始めたということである。そしてこの傾向は、『ポニョ』を経て『風立ちぬ』において一層強まった、とみるべきであろう。なぜなら、

『ポニョ』が政治性の貫入する余地のない世界観およびキャラクター設定に沿って作られた物語である

のに対して、

『風立ちぬ』は「戦間期→日本の敗戦という時代背景、主人公は零戦の設計者」という、一見して政治性と切り離しがたい設定を下地としている

から。要するに氏は『風立ちぬ』において、

イデオロギー的にセンシブルな設定を意図的に選択しながら、制作過程で作品から入念にイデオロギー性を排除しようと試みた

のである。この意味において『風立ちぬ』は、宮崎駿にとって大いに挑戦的な作品であったといえる。本作は氏による、『ハウルの動く城』や『もののけ姫』との訣別宣言であったと言っても過言ではなかろう。実際に鑑賞してみればよく分かる。イデオロギー性が作品世界を覆ってしまうことのないように、氏は細心の注意を払っている。むろん制作者の思想的立ち位置と完全に無関係な作品制作は不可能であるゆえ、『風立ちぬ』にも宮崎駿自身のイデオロギーが見てとれる箇所はところどころある。しかしそれが物語の軸となることはない。すなわち本作は、いわゆる「反戦映画」では決してない。

大文字の主題が、政治性が、表現を無残に圧殺してしまう過程を、我々は『ハウルの動く城』においてイヤというほど見せつけられた。おそらくは宮崎駿自身、この点に自覚的であったのだろう。であればこそ『ポニョ』以降の転向がある。氏の世界観と政治的スタンス自体は10年前も今も変わらないだろうが、氏のアニメ作品に対する認識は変わったのである。

大文字の主題と切り離されたことによって、『風立ちぬ』は紋切り型の批評が大した意味を成さぬ作品となった。「夢の達成と善との解離」とか、「夢を追求することによる喪失」とか、本作品の主題を無理矢理設定することは可能であるが、あくまでも「無理矢理」である。そしてこれらはいわゆる「大文字の主題」ではない。中学生に鑑賞文を書かせたら、「模範解答」が山と出てくるであろう他のジブリ作品─『火垂るの墓』とか『もののけ姫』─とは明らかに性質の異なるものとなった『風立ちぬ』。これこそが、クリエイター・宮崎駿の到達点なのかも知れない。すなわち氏は、作品においては政治性でなく、人間ないし人間性に寄り添うことを決めたのである。


※追記
どうしてもわからない点。

なぜ本作品のヒロインの名は「節子」ではなく「菜穂子」なのか?

堀辰雄の『風立ちぬ』(以下、原作)のヒロインの名は「節子」である。晩年の作品に『菜穂子』もあるが、宮崎版『風立ちぬ』の菜穂子の立ち位置は、原作の節子のそれに近い。
ここに宮崎駿の意図が無かったはずは無いのだが…私には理解しかねる。ま、詳しいことは有識者が勝手に解釈してくれるでしょう。その中に納得のゆくものがあればよいのだが

コメント

ペンタバイト
2013年7月26日8:45

節子だと、火垂るの墓っぽくなっちゃうからじゃないですかね?(白目)

風立ちぬを書いた堀辰雄さんの作品に菜穂子ってのがあって、堀辰雄さんも結核を患っておられたのでいろいろ混ぜて菜穂子なのかなぁと。

勝手な僕の思いです。きちんとした根拠とかもないです…

先生様
2013年7月27日1:34

>火垂るの墓とかぶる
もしかすると、本当に、単にそれが理由なのかもしれませんね。

※ちなみに堀辰雄自身、婚約者との死別─むろん死因は結核でありました─を経験しています。その婚約者の名は「綾子」です。

原作『風立ちぬ』の節子はいわゆる「儚くも美しい」女性で、芯の強さらしきものが見受けられない。一方、『菜穂子』は既婚女性の精神的自立の過程を描いた小説であります。宮崎駿は、どちらの要素も欲しかったのかもしれません。『菜穂子』的な要素を取り入れた点に氏のイデオロギー性を見出すことも不可能ではありませんが、おそらくそれは邪推でしょう。

なお私見ですが、『風立ちぬ』は、「個々の現象間の因果的つながり」の描写を極力排除して、ジャスト「現象」を、そして「人間と人間性」を描こうとしています。例えば二郎が高原のホテルを訪れた理由など、作中では明示されていない。観る人によっては、ただの「訳の分からん作品」であったかも知れません。少なくとも子供が見て楽しい映画ではありませんね。

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