選挙→行かず。投票所まで歩く時間と労力の無駄。
午後は一刻館ドラフト。こちらは万難排して行く。

選挙に行かなくなって、もう何年にもなる。私には支持政党がない。最重要の政治的自由とは、いずれの党派性にも属さないことを選択できる自由であると私は信じているもので。
そもそも、マニフェストやら公約やら各党の(建前上の)政治的理念やらが、有権者らの投票行動の主たる決定要因と見なされている現状がおかしいのだ。本来選挙というものは、候補者の政治的スタンスではなく「人格」を判断すべきものではなかったのか?

「国民が政治を執り行うことは全くの不可能事である。だが自らの代表者を選ぶことは可能である。これは国民の能力の能く及ぶところである」‐モンテスキュー

要するにモンテスキューは、国民の政治的知見にはまるっきり信頼を寄せていなかったが、国民の「常識」「感性」には信を置いていたわけだ。この常識と感性によって、権力欲の権化や金の亡者などなど、人格面に問題を有する者が政治の場から締め出されることを彼は期待したのだ。

しかし今の選挙活動は、これとは真逆の方向を向いているように思えてならない。
マニフェスト?
これを言葉の正しい意味で、総合的に「吟味」できる人がどれくらいいるというのか?日本人の大半は、ワイドショーや2ちゃんのレベルでしか政治を捉えていないというのに。

以上、さんざん愚痴を並べ立てたが、肝心の日本の政治の行く末については、実は私は何も心配していない。
二大政党制の基礎とをなすものは畢竟、階級的・人種的対立であるわけであるが、このどちらも日本には縁遠いものである(異論はあるだろうが)。それゆえ現実政治においては、民主党と自民党とのあいだに大なる差は生じ難い。むろん彼らは、マニフェストを設計する段階では、他政党との差別化に腐心することだろう。しかしいざそれを実行に移す段になると、思い切ったことは出来ない。子ども手当てを巡る朝令暮改ぶり見れば、そのことは分かるだろう。結局、旧来的な自民党の政治とかけ離れたことなど出来るはずがないのだ。
むろんこれは日本だけに当てはまることではない。アメリカの民主党と共和党、イギリスの保守党と労働党(最近では自由党も含めなければならぬ)、どれも似たようなものだ。

今現在は「自民党にお灸を据えよう→民主党も期待はずれだ→やはり自民党の方が…」という流れの渦中ある。この調子で自民党が巻き返すのか、それとも民主党が踏みとどまるのか、それは分からない。最近は「みんなの党」なる新勢力も等閑視できない存在となりつつある。
だが、どこが第一党となろうとも、日本の政治に大なる変化は現れないだろう。人々は常に同じ期待と失望とを繰り返す。
だから私は選挙の日も、安心して寝ていられるのだ。

追記:
貧富の差の拡大・階層の固定化とその再生産が進むところまで進めば、日本にも「二大政党制らしい」二大政党制が誕生する可能性はある。もっとも、それがいつになるかは分からない。いささか旧時代的ながら、一党支配の下の階層社会も―それが依拠するイデオロギーは千差万別だが―数知れずあるので、何とも言えないが。



コメント

猿缶
2011年4月10日10:04

>ひ
前回のエントリであんなこと書いときながらそれはないわ・・・

えれめん
2011年4月10日22:27

何キャラを目指したい?

先生様
2011年4月11日0:08

強いて言えば
ブラックコーヒーと煙草とウイスキーと学術書が似合う、燻し銀のキャラ
を目指したい

さとぅ
2011年4月12日10:19

ブラックコーヒーと煙草とウイスキーと学術書が似合う、燻し銀のロリコンか。ハードル高いなw

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